戦後応援団の再創設

知性と情熱と ―恩師佐々木教授の回顧―

八巻 恭介

学徒動員で出陣した私が終戦とともに懐しの明治大学に復学したのは、その年昭和20年9月の末であった。

校門を潜った私が先づ感じた事は校舎、校庭が荒廃し、学生は虚脱状態で、無気力におちいっているということであった。

当時、復員したての血気さかんな私にとって、耐えがたいほどの感情のほとばしりと憤まんやる方ない気持があった。

当時日本は全土にわたって、敗戦の虚脱状態がみなぎり、一日も早くそこから抜け出そう、そして文化国家を建設しようという気運が生れかかるときでもあった。

そこで私も、この様な日本、特に若人、大学の学生に何か希望を与え、それを目標に突進する事こそ、日本復興の早道であると考え、同志を糾合して相談し合ったものである。

その結果、応援団を再建して、学内の諸々の推進機関としての役割を果すことこそが手短かであり、なお、所期の目的を達しうる早道であろうということに、衆議が一決した。

「応援団」の活躍の場として、六大学野球のリーグ戦を復活させるプランを立て、手始めに早大と野球試合をすべく交渉をし、その年秋11月には実現をした。

この試合は情熱の新しいはけ口を見出した意味で成功し、その勢いが、つづいて六大学のリーグ戦復活の足掛りともなった。

この時にあたって、正式な「応援団」も結成の機が熟し、同志、学生委員等と結成のための準備に入ったのであったが、先ずは部長先生をということで、誰の口からも異口同音に佐々木先生を――われらが親父はこの先生以外にはないということで一決し、私、田中、森岡両君が、その交渉を任せられることとなった。

当時先生は目黒の富士見台にお住まいであった。

伺った私等をおどろかしたのは、玄関まで溢れだして積みあげられた書籍の山である。
通された書斎、そこにも書籍は山となり、その山の隙間に先生は小さくなって坐って居られた。

私たちの来意と真情とを、交互に申しあげ部長になって頂くおねがいをしたのであっが、開口一番に先生から申されたことは、

「これからの日本は学問がなければ駄目である。文化国家として世界に伍して行くために、そして又、一日も早く立直るためには、学問こそが、唯一で最大の近道である、」と。

つづいて、

「応援団の結成は大変結構。ただ、かつての応援団の如く、スポーツ万能の応援団であってはならない。学問の道にも、文化グループ各部の活動にも、応援する『応援団』となる考えを持たねばならない。ともすれば、暴力団的、バンカラの面なきにしもあらずであった過去の『応援団』であってはならない。
知性のある、スポーツ活動にも、学問・文化活動にもそのエネルギーとなるような『応援団』を創りあげる、ということを君達が約束するなら部長を引きうけよう、」ということであった。

私達はその先生の意を体して、「応援団」創設のお約束をし、欣喜雀躍、部長決定の大役を果したのであった。

部長が決定したことで準備もはかどり、昭和21年5月に、記念館で結成大会を盛大に挙行するはこびとなった。
結成大会における宣言文が、私の手許にあるので、長くなるが披露したい。

宣言

慈ニ同志相結ビ明治大学応援団ヲ組織ス
惟ニ祖国敗戦ノ日ヲ閲シテ慈ニ半歳、国歩恨難ノ度ハ正ニ古今ニ絶スルニ至ル
吾等志ヲ学ニ立テ日夜研学ノ道ニ励精スルト雖モ亦モツテ祖国ノ直面セル悲境ト、吾等ノ果スベキ祖国回運ノ責務トヲ自覚セザルベケン哉。
此ノ秋ニ当リ吾等ハ本学々生志向ノ強力ナル推進機関トシテ学生運動全般ノ指導ニ任ジ、以ツテ学生ノ資質ノ向上ト陶冶ニ任ズルト共ニ、文化活動ノ振興、学生スポーツノ向上トスポーツ精神ノ作興を促シ、以ツテ学園ニ明朗 達ナル雰囲気ト正義剛健ノ気風トヲ培養セントス。
応援団幾多先輩ノ後ヲ亨ケ吾等ノ成スベキ任ハ重ク業ハ大ナリ、心魂ヲ没シテ学生ノ真姿顕現ト学園ノ美風育成ニ任ズ。

右 宣言ス
昭和21年5月16日

明治大学 応援団

このようにして誕生した応援団は佐々木部長先生の意を体し、知的応援団として、学内の推進機関とし、又時として、学内の潤滑油としての役割を果しながら大いに活躍をした。

先にも書いたように、当時の学内は荒れ放題であった。応援団が提唱者となって校内美化運動を展開し、団員総動員で、ホーキ・雑巾で清掃したこともあった。

当時は食糧事情が極度に悪化しており、運動部の選手たちは、お腹がすきすぎて、思うように競技ができないと言うことで、千葉方面へ何度となくサツマ芋の買出しに行き、リュック一杯つめこんで各運動選手に届けて「さあ腹一杯食べて明日の競技に頑張ってくれ」と激励するなど――。

文化部の研究発表会に際して、記念館の会場準備・大会のスムースな進行のための活撥な応援活動等もしたのであった。

これらはすべて佐々木先生の指導によって行われたもので、先生が応援団はもとより、明大の全学生にいつも深い愛情をもっておられた事が、ひしひしと感ぜられたのである。

私が大学を卒業して家業である温泉宿「不老閣」を継ぐために、山梨の増富へ引込んだ2年後、偶々応援団の合宿が、私の「不老閣」で行われ、佐々木部長先生も同行されて二泊された。最後の納会の日、丁度、政経の三神・岩下両先生も、偶々来閣されたので、皆んなで賑やかに納会をしようと云うことになり、宴進み興盛りあがるにしたがって三神先生が尺八で一曲を奏でた。

佐々木先生が「それでは私も一つ」と仰言って、三神先生の尺八にあわせ、確か「さんさ時雨」であったと思うが、ものの美事に歌われたのには、三神先生、私、又学生達もおどろきもし、それに平常、謹厳実直なイメージであっただけに、立派な隠し芸の披露に改めて畏敬の念を持ったのであった。

学内の大きな星であった先生は、多くの学生みんなに慕われ、懸案の経営学部を創設し、総長もつとめられて、明大戦後の歴史中の大先生であった。

いつも身近かにあって私を励ましつづけてくれた明大生活そのままに、いつまでも私の今日までの支えになって頂いた心の大地とも云うべき先生に対して、深い愛惜の情と畏敬の念とを禁じえないものである。

(元山梨県議会議長)