応援団誕生

1921年(大正10年)明治大学応球団誕生の記

弁護士をめざして、当時黄金時代であった明大法科に入学したのは大正八年、貧乏田舎教師の父親からは学資がもらえず、三年浪人して生活基礎をきずいての入学なのでいささか老学生、しかも予科、本課五年の学部入学だ。

好きな道なのですぐ相撲部をのぞいたら、中学時代に相撲で親しんだ各校の連中はもう上級生。中には「これから勉強か、俺はこの秋、専門部を卒業だぞ」と晩学の私をひやかした。

ところがそういう連中がやがて卒業すると相撲部は寂しくなるので顔なじみの委員連中は大喜び。

早速稽古に引き出されて、江見水蔭先生門下の腕前を発揮したばかりに六法全書をふところにしながら、相撲部が本業のようになり「その年の秋、名古屋で行なわれた東海学生相撲大会に参加、卒業近い老巧選手の多い明大は見事に優勝、翌年は毎日主催の第二回大浜全国大会に関東として早大などと共 に参加、ここでもわたしたちは大活躍、お蔭でふところの六法全書は無用となり相撲部に深入りしてしまった。

六大学野球の基礎となった大学野球は、当時まだ早慶戦は復活せず、変則リーグ戦であり、野球部長で同郷の内海月杖先生と入学間もなく会して先生から変則リーグの不見識をいわれ、これを打破して完全リーグにするには、わが大学が早、慶、法に完全優勝し、早慶と互格の立場となり、発言力を得て早慶を戦わせるようにしなくてはならないとしみじみ聞かされ、なみほどと感じ、リーグ戦には必ず顔を出し、早慶打倒のための応援に全力をつくした。

当時、貧乏で床屋に思い通り行けないので、相撲部であることをよいことにし、力士をまねていつの間にやら長髪となり、そのため当時、勢力のつよかった長髪の宗教″大本教″がわたしのアダ名となった。

応援に行くと必ずわたしに付き添っていたこれも長髪の学生がいたが、わたしが「僕は仕方なく、変なアダ名をもらっているが、君はよした方がよい よ」と注意したら「わたしは本当の大本教信者です」といわれ「ニセモノ、本物をしかる」と大笑いになった。

その仁は誰あろう、後に団長二代目となり、やがて母校の政治経済学部の教授となって人気の高い永田正先生だ。

長髪だったのでロの悪い一部から「虫がわいでる」など陰口を聞かされたが、相撲では髪は上に戴くので神なりとして常に手入れを怠らず大切にしたものだ。昔は早大に吉岡信政氏あり、有名だったが、早慶戦中止で大昔の話となってしまった。

そこへわたしが長髪という異様な姿で、しかも当時は自由であった紋付羽織袴で独自の紅白の扇子を左右に持ち、紅白を交互に裏表にして、当時出来た″白雲なびく″の校歌に合わせて指揮をした。
単純だったが応援団員が変わるので、変わったことが出来なかったのだ。

早、慶、法に完勝するのは容易でなく、一結局昭和十二年秋、ようやく目的を達した。内海先生のご努力で大正十四年秋早慶戦復活→東大も加わり完全 六大単リーグ戦となったことは深い思い出である。

五年間の学窓の思い出は山ほどあるが、一番の印象は大正十二年九月一正の関東大震災だ。

そして東京中心地の明大は被災し、再起が問題となった。

わたしたち体育会は全国校友の立ち上がりを祈念して奮起し、学園焼け跡の整理に活躍、街行く本職の労務者たちをびっくりさせた。わたしはすぐに鉛筆をとり「妖魔の業か天けんか」の明大復興歌を作り、皆、喜んで愛唱してくれた。

一つ一つ、古い思い出をしのぶと、わたしも若がえった気持になる。こうして弁護士は夢と消え、相撲で生きている。
(相撲評論家)

相馬 基 初代応援団長
大正11年当時話題をまいた「大本教」教祖ばりに長髪をなびかせ黒紋付に羽織ハカマを着用 大扇子をかざして豪快な応援を行なった。