校歌物語

明大校歌。それは大正9年、3人の学生の奮闘が生み出したものだった。歌われている「独立自治」「権利自由」は、建学の思想。ふりかえれば、明治14年、学校設立の立て役者も、3人の20代の若者たちだった。

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校歌物語

山田 耕筰

1920年の春ではなかったか三年に亘る北国における長旅から帰朝したばかりのある午後、私は牛尾哲造という青年から来訪を受けた。 来訪は明治大学の校歌作製について是非協力して欲しいとの事だった。 その頃の私は純芸術作品にのみ筆を執っていたので校歌という様な特殊な歌曲を作った経験も乏しかったし、実は御受けすべきではないと思ったのだが、色々と話をしているうちに、ついに牛尾青年の熱意に動かされて、とうとう作曲を引受けてしまったのである。
しかし、いざ詩を拝見してみると、それは国語体に書かれていて、到底作曲にたえ得るものではなかった。作詩者児玉花外君とは旧知の間柄であるし、もし花外君が一切を委してくれるなら、一応歌の詩として研究して見ようという事になり、遂に私が歌詩作製にまで当る事になってしまったのである。 それは決して容易な仕事ではなかった。 が、牛尾君の熱意は誠に言語に絶する凄いもので、毎朝六時には私の門をたたくという態のものだった。

考えてみれば私も若かった。 30を出たばかりの誠に熱っぽい時代だったので、つい牛尾君の意気に歌詩をまとめることに没頭し、これならばという詩にまで仕上げたのである。 然し、いくら詩の好きな私であっても、一応はその道の大家の叱声を仰ぐべきだと信じたので、畏友三木露風君の援助を乞うた。

かくして生れたのが、あの「白雲なびく・・・・・・」である。 考えて見ると、明治大学の校歌は牛尾君の燃えるような意気と、原作者児玉花外君の寛容さと私の若さの所産であると言えよう。 とにかく、詩が曲を呼ぶのであるから、歌詩の作製に精魂を傾けたのは正しい行き方であった。 それだけに私は作曲に際しては何の遅凝もなく、一気に書き上げることが出来たのである。

その頃にしては一般学生の歌うものとしては、音域の点からも曲調の上からも必ずしも歌い易いものとは言えなかったが、私は一切の妥協を排して自分の思うまま、信ずるままに作曲したのである。 それも今にして思えば返ってよかったと言えよう。 言葉を換えて言えば、それは青年の誠と意気の端的な爆発であるからだ。 そして、それが私の校歌の処女作になったのだ。私としては忘れ得ぬ思い出である。

牛尾君は然し、校歌の完成だけでは満足しなかった。 学生がどう歌うかを聴いてくれというのだった。 その頃でも決して暇のある私ではなかったが、牛尾君のあの強引さに負けて、あの日明治大学に顔を出したのである。

既に学生諸君は講堂に溢れていた。 私はまず、学生諸君の自由な歌唱を聴くことにした。 その上で訂正すべき点があれば注意しようと思ったからだ。 処が、第一節のなかばにも及ばぬうちに私は唖然としてしまった。 それは青年の意気の高唱ではなく、百姓一揆の唸り声にも似た退嬰的歌声であったからだ。 凡そ私の作曲したものとは似てもつかぬものとして響いたのである。 私は壇上に騒け上って指揮棒をとった。 そしてかなり激越な言辞を弄して学生諸君の反省を促した。 約一時聞余にも及ぶ練習で、講堂も割れるような力強い、正々堂々の歌唱が生れた。 その時の感激は今もなお私の身内をゆるがすのである。

その日、その瞬間に、真の明治大学校歌は誕生したのである。 それから一ヶ月も経ったと思う。 明治大学にストライキが勃発した。 するとある朝である、私の家に職員の一人から電話があった「あなたの作られた校歌で吾々は殺されそうです。原譜は金庫の奥深く隠してあるのですが、何とか鎮める方法はないものでしょうか」と言うのである。

私は返す言葉に窮した。 然し心中密かに思った。 それだけの威力を持った校歌を書き得たとなれば……。 そうだ、それでいいのだ。

武田孟 (応援団OB)

武田 孟(たけだ つとむ、1896年(明治29年)2月2日 – 1990年10月25日(平成2年))は教育者。元明治大学野球部長、明大学長・総長。日米大学野球選手権の創設など学生野球の普及、発展に長年尽力した。広島県広島市出身

商科の学生だった1920年(大正9年)、大学レガッタの惨敗などで大学混乱の中、牛尾哲造、越智七五三吉と共に大学校歌として著名な 「白雲なびく駿河台」(作詞児玉花外・作曲山田耕筰)制定に奔走。1923年(大正12年)卒業。

1936年(昭和11年)から明大商学部教授。当初は硬式庭球部長に就いていたが、1952年(昭和27年)から監督就任した教え子島岡吉郎に請われ、島岡を支える硬式野球部長となる。島岡の学生時代は応援団長で野球とは門外漢のこの人事に、主力の新四年生の集団退部という事態を招くが島岡を支え翌1953年(昭和28年)春、11年ぶりまた、戦後初めての優勝を明治にもたらした。1958年(昭和33年)学長就任後も、野球への強い愛情から部長を続け全日本大学野球選手権大会史上初の連続優勝他、明治黄金時代を築いた。同年から1964年(昭和39年)まで、全日本大学野球連盟会長。同年、明大総長就任と同時に第4代日本学生野球協会会長となり、1983年(昭和58年)まで20年の長きにわたって同職を務め学生野球の普及、発展に尽力した。

また早くから野球の国際化に理解を示し、1972年(昭和47年)には長年の懸案であった日米大学野球選手権大会を実現させた。

高校野球の甲子園大会では、春夏逢わせて40回、開会式で祝辞に立ったが「甲子園」と言うべきところを「神宮球場」と言ってしまったというエピソードがある。

1964年(昭和39年)から1968年(昭和43年)まで明治大学総長。他に札幌大学設置にも尽力、1979年(昭和54年)から1986年(昭和61年)まで札幌大学学長を務めた。
1967年(昭和42年)勲二等旭日重光章受章。

1990年(平成2年)10月、94歳で死去。

死後2001年(平成13年)、長年に渡る学生野球への貢献で野球殿堂入り。
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